[ELECTROSPHERE]:だれでもないもの。

 << おまえはだれだ >>
 色のない空の下。炎を噴きながら墜ちていく、黒い翼が叫ぶ。
 << おまえはだれだ >>
 眼を抉られ、手足をもがれ、翼さえも千切られようとしながら、怯えた声で。
 << おまえはだれだ >>
 必死なその問い掛けを聞きながら、く、と口元が吊り上がる。

 「誰でも無い。お前を墜としたのは誰でも無い」

 唇から、続く言葉が滑り出てくる。誰かの言葉をなぞるように。

  「『オデュッセイア』にもあるじゃあないか、誰でも無いもの(Outis)と名乗って巨人ポリュフェーモスの眼を潰したオデュッセウスの話が」

 "おいポリュフェーモス。何を苦しんでゐるんだ。真夜中にそんな大きな声を出したら、眠れんではないか。いつたい何事なんだ。お前の羊が盗まれたとでもいふのか。お前の命を狙つて誰かがお前を計略にはめようとしてゐるのか。それとも、誰かがお前に暴力をふるふのか"
 その声に対して、洞窟の中から巨人のポリュフェーモスが答へました。
 "おお、みんな、助けてくれ。誰でもないものが、暴力ではなく、おれを計略にはめて殺さうとしてゐるのだ"
 すると、彼らは賢明にも次のやうに答へました。
 "そうか。一人暮しのお前を苦しめているのが誰でもないなら、お前はゼウスさまがお送りになるといふ病(やまひ)に罹つたに違ひない。それなら、我々にはどうすることもできない。せいぜい、お前のおやじのポセイドンに言ひつけることだな"
 かう言つて彼らは引き上げてしまつたのです。わたしは名前を使った策略がまんまと当たつたのを見て心中ほくそゑんでゐました。

 「お前を墜としたのは誰でも無いもの(Nemo)だ。お前は一人で、勝手に墜ちていく。」

 どうしようもなく笑いがこみあげてくる。
 形を保つ事すらできなくなり、ばらばらにほぐれだす黒い翼を見送りながら。

 「たった一人で、この何も無い空に消えろ、ディジョン。」
 << そうか、そうかそうかそうか……貴様、サイモ…………!! >>
 絶叫は、唐突に途切れて。
 無色の空が、砕け散った。

主犯の不在、主格の不在。
誰でも無いなら誰にでもなれる。誰でも無いから誰かにされてしまう。