それは、突然にやってきた。

 ぎきぃぃぃぃゃあああああぁぁぁぁぁぉぉぉぅッ!

 考え事をしていた僕の耳に突き刺さる、鋭い、そしてひずんだ叫び。
 「な…!?」
 慌てて見下ろした僕の視界を、真っ白い甲殻が切り裂いていく。
 そして、前方を遮る巨大な影。
 見上げると、そこには、僕らの先を行くようにして、異形のドラゴンがゆっくりと羽ばたいていた。
 頭から背中にかけてを、すっぽりと覆った厚い甲殻。
 長く伸びた尾の周囲を取り巻く、翼にも似た何枚もの長い鱗。
 あの蒼いドラゴンの姿からはかけ離れているにも関らず、僕にはその後ろ姿だけで、こいつがあのドラゴンだと、はっきり解った。
 ……これが、最後。
 「そうだな」
 ラギの声に答えた僕の足元が、不意に蒼く輝きだす。
 脱皮する前兆の、あの光だ。
 絵巻物で見たこの姿、これで終わりだと思っていたのに。
 まだ、この先があるのか?…これが、最後というのはこの事なのか?
 その疑問に答えるように、脱皮を終えたラギの甲殻が弾け飛ぶ。
 その下から現れたのは、青みを増した鱗に覆われた、細い身体。
 やや短くなった角、首の周囲を断続的に覆う白い甲殻は背中から再び細くなった尾へと続き、そして。
 ばさり、と大きな音を立てて、ラギが羽ばたいた。
 風を切って蒼いドラゴンを追うその翼は空の色から、二筋の緋色の線が横切る金色…炎の色へと変わっている。
 何故か、僕はその時確信していた。
 これが、ラギの本当の姿なんだと。
 ラギのために用意された、「世界にたった一つの翼(ソロ=ウィング)」なんだと、そう思っていた。

 闘いは、かなり長引いた。
 蒼いドラゴンはその大きさもさることながら、今までの攻性生物なんかとは、甲殻の強度が桁違いなのだ。
 鱗を開いたヤツの、尾の先から噴き出す光の粒を避け、その巨大な鱗の隙間を抜ける。
 何度も何度も振り上げてくる尾の下を抜け、すれ違いざまに叩き込み続けた光の矢と弾丸は、分厚い甲殻に弾かれながらも、確実にその厚みを削り取っていくけれど。
 それでも、蒼い竜は悠然と羽ばたきながら自分の数十分の一しかないラギめがけて、恐ろしいくらい正確な攻撃を仕掛けてくる。
 真っ赤な光の筋が、僕のすぐ横をかすめて宙に溶けた。
 ……大丈夫?
 ……大丈夫。
 ……怖い?
 …怖くなんかない。
 ……二人でならば、怖い事なんかないから。
 無言の会話が、風と一緒に交わされる。
 狙いを外された悔しさにか、それとも己の力を誇示するためか。
 真正面に回り込んだ僕らに、ざらついた咆哮を上げるヤツの目を見上げて。
 ためらう事なく、僕は引き金を引いた。

 ばらばらに散らばる甲殻が落下していく中、歪んだ叫び声はひどく近くから聞こえた。
 金色の光の粉を撒き散らしながら、ヤツの放った光の矢が、僕らの真横をかすめて、真っ青な空を切り裂いていく。
 「…しつこいヤツめ」
 さっきまで纏っていた甲殻を落とされて身軽になったとでも言うんだろうか。
 最初に見た時と同じ、長い尾を波打たせ、暗い蒼の翼を広げたあのドラゴンが一直線に上空に飛び上がるのを見ながら、僕は呟いた。
 その蒼い翼が、金色の光を纏ったと思った瞬間。
 片目とは思えない、物凄いスピードと正確さで僕らめがけて降下してくるヤツと、それを迎え撃とうと急上昇したラギと。
 互いに放った金と銀の流星が火花を散らしてぶつかり合い、白い雲を、より白く染め上げた。
 雲の上に二つの影を落としながら。
 空中で一瞬交差した、青と蒼、二匹の竜が空を駆ける。
 もう一度、光の矢を放ちながらとんでもない速さですれ違い、一気に距離を離しては、またすれ違う。
 何度目かの交差の瞬間。
 急降下してきたヤツの体当たりを喰らって、ラギが大きくよろめいた。
 が、その背中に僕はいない。
 蒼いドラゴンが異変に気付くよりも早く。
 その無防備な首筋の、甲殻の隙間に僕が握り締めたナイフが深々と突き立った。

 ぎぁぁぁぁぁおぉぉぅぅぅぅぅぅぅぉッ!

 苦痛の悲鳴を上げて首をよじるヤツの、大きく開いた口の中で、至近距離から放った銃弾が炸裂する。
 暴れるヤツの首筋から振り落とされて、落下する僕を背中に受け止めながら。
 ラギが撃ち出した光の矢が、その頭を粉微塵に吹き飛ばしていた。

 「もう、二度と来ないだろうな……」
 汗を拭い、蒼いドラゴンの身体が雲の下へと今度こそ完全に落下していくのを見送りながら僕は思わず呟く。
 その頭上に、大きな影がさした。
 見上げれば、とうとう守護者であるドラゴンをも失ったシェルクーフが、ゆっくりと落下していく。
 その船体から、危険を感じたのか攻性生物たちがばらばらと逃げ出しているのが見える。
 完全に、機能が停止したんだ。
 もう、あのフネは二度と飛ぶことはないだろう。
 「今度こそ、終わったんだな」
 …終わったね。
 呟いた僕を乗せて羽ばたくラギの背の上で。
 僕の身体が、ふわり、と浮いた。
 蒼い光が、泡のように僕を包んでいる。
 ふわふわと浮きながら、けれども少しずつ落下していく僕の目の前に、ラギの黒い瞳があった。
 「……ラギ?」
 ……ランディの旅は、ここで終わり。だから、お別れ。
 「ラギ!」
 …行くよ。しなくちゃいけない事があるから。
 叫ぶ僕に背を向け、ラギは炎の色をした翼を大きく羽ばたかせて高く舞い上がる。
 僕の耳の奥に、澄んだ、一際高く響く声を残して。
 その影が、シェルクーフへと向かって行くのが見えたと思った瞬間。
 空は真っ白い光で覆われ、僕は、そのまま気を失った。

 ……夢を見た。  何処ともしれない場所で、羽ばたく大きな影。
 …行かなくちゃ。……今は、この塔を封印するから……
 ラギの声が、聞こえる。
 …『塔』を統べるモノ……『セストレン』へ…『絶対の客人』……『調停者』を………『乗り手』と………
 聞いたこともない、なのに知っているような、奇妙に懐かしい言葉。
 誰かを乗せて、大空を駆ける翼。
 命懸けで何かをしようとして、だけど途中で倒れてしまった誰か。
 戸惑ったような表情を浮かべて、青いドラゴンの首筋に触れた誰か。
 僕と同じ目をして、銃をとった誰か。
 意志の強そうな、碧の瞳……黒髪の、女の子。
 彼女を、そしてもう一人の誰かを乗せて、天高くそびえ立つ塔へと、風を切って駆ける翼。
 そして。
 小さな翼を羽ばたかせ、今にも飛んでみせようとする小さなドラゴン…ラギ。
 耳の奥でもう一度、澄んだ声が響き渡る。
 ああ、これはあの時のラギの声だ。
 ……ありがとう、さようなら、またいつか。…大切な友達を、決して忘れはしないから。

 気が付くと、僕は晴れ渡った空の下にいた。
 さっきまで厚い雲に覆われていたゲオルギウスの空が、嘘のように澄み渡っている。
 さっきの夢は、一体何だったんだろう。
 とても大事な事だったはずなのに、もう思い出せない。
 ラギは、僕に何かを教えてくれた、そんな気がするだけだ。
 彼が生まれてきた理由、僕と出会って、そして別れてしまった理由…
 ただ、最後の言葉だけが耳に残っていた。

 僕が目を覚ました場所から少し離れた所で。
 シェルクーフの残骸を見つけて、僕は中へと入ってみた。
 最初こそ油断なく銃を構えていたが、すぐに、それが無駄な事に気付く。
 フネは、完全に「死んで」いたからだ。
 中にいた攻性生物すら、石のように固まって動かなかった。
 僕以外に動くもののないフネの中に、僕の足音だけが響く。
 …たぶん、そんなに時間はかかっていなかったと思う。
 たどりついた、フネの中央部で。
 僕は、ラギを見つけた。
 シェルクーフの壁の中に埋もれるようにして。
 彼は、まるで最初からそこに嵌め込まれていたレリーフのように固く、動かずにそのままでいた。
 これが、彼が言っていた「フネの封印」なんだろう。
 ラギは、死んでしまったわけじゃない。でも、このフネもろとも眠ってしまったんだ。
 そう思った時、なんだか涙が出てきた。

 そして。
 「里長!ドラゴンの話、してくれよ」
 「聞かせて、聞かせて」
 「…そうだな、あれは私がまだガッシュくらいの年の頃だ」
 私…スキアド=オプス=ランディは子供たちに囲まれながら、かつて共に飛んだ親友の、幾度目かも解らない話を語って聞かせる。
 あの時、行くあてもなく歩いていた私はフネを調査に来たシーカー達と出合い、そして、彼らと一緒に行動するようになった。
 長い間に<旧世紀>について色々な事を学んで。
 私は、そこでラギの目指すものが何なのかを知った。
 異端の竜…『塔』から世界を開放するための、たった一つの翼。
 あのフネで、『空の塔』で一度は身体を捨ててしまったラギは、しかしいつかまた自分の役目を果たすために別の翼を得て、再び大空へと飛び立っていくだろう。
 そしてその時、その背中には私ではない、別の誰かが乗っているはずだ。
 私がラギに逢う事は、この先二度とないだろう。
 …そう、ラギは、あの風と炎を纏った空色の翼は、必ず空へと還っていく。
 そしてその時、その背中に乗っているのは…彼が必要としているのは「僕」じゃない。
 それでも、僕は哀しくなんかない。…そう言ったら、嘘になるかもしれない。
 けれども、僕には解る。

 僕らは、生涯の友なのだから。
 彼が飛ぶ事を思う時、僕はいつも彼のそばにいる。
 そして、彼もまた、僕と共に飛んでいる。
 ……この、あまりにも青い空の向こうに。