最後に立ち寄った街から、すでに一ヵ月。
ただひたすらに、僕たちはフネを追って東へと飛ぶ。
人が住む土地を離れて、いったい何リオンになるんだろうか。
僕らの目の前には、「禁忌の地(ゲオルギウス)」と呼ばれる濁った水たまりが広がっている。
「氷の海」、そうとも呼ばれるこの土地で、僕は初めて「海」というものを見た(ゲオルギウスが実際には「湖」であることを知るのは、これよりずっと後の事になる)。
あの河の流れを遡ってきたのだから、本当なら、ここにあるのは澄んだ水と木々の茂る豊かな草原のはずなのに。
所々にのぞく地表は荒れ果てて、決して晴れる事のない空からは紅みがかった雪がちらちらと降り、薄く靄がかかった水面には、分厚い氷が浮かんでいる。
どんなに開墾しようとも、きっと草一本育たないだろう。
荒れ地に強い砂潜りや土喰蟲(ワーム)だって、たぶんこんな所じゃ生きていけない。
生き物の気配もない、紅い雪が降る氷の海は、とても淋しい光景だ。
そう、淋しい場所。忌まわしい場所じゃない、淋しすぎる場所だから、人はここを避けているんだ。
ふと、そう思った。
ゲオルギウスでは、わずかな地面の上で休み、ラギの翼の下で雪を防いで眠る、そんな日々が続いた。
もうどれくらい、飛んだだろうか。
欠かさずつけていた日記ですら、その日の日付が判らなくなりかけてた頃、僕らはようやくシェルクーフへと追い付いた。
僕とラギだけしかいなかった空の向こうに、黒い影が見える。
ひときわ大きな影…シェルクーフの後に見えるのは、あれは多分帝国の戦艦だ。
どうしても、あのフネを諦める気にはなれないらしい。
不意に、と言うか、予想した通り、と言うか。
フネに近付いた戦艦の群れが、次々と火を噴いた。
失速していく戦艦に、とどめを刺そうとまとわりつく攻性生物たち。
火に追われてか、それとも容赦なく攻撃を仕掛けてくる奴らから逃げ出そうとしてか、何もない空中に放り出される乗組員の姿に、僕は思わず目を背けた。
彼らだって、好きでこんな所まで来ている訳じゃないはずだ…それなのに。
そんなにしてまで、帝国は力が欲しいんだろうか?
<旧世紀>の力…普通に生きている人々では太刀打ちできない攻性生物たち、遺跡に眠る凶悪なガーディアン…そして、ドラゴン。
そんな大きなものでもない、僕の手の中にあるこの銃さえも、普通の弓矢なんかじゃ貫けない攻性生物の甲殻を吹き飛ばすほどの力を持っている。
平凡な「日常」を、ささやかな「幸せ」さえも根こそぎ奪い去ってしまう、そんな力を、理屈もほとんど判らずに使っていて、怖いと思った事はないんだろうか?
僕は…怖い。
目の前に迫ってきているシェルクーフの巨大な白い船体も、その船底からこちらに向かってこようとしている戦艦も、そして、今、自分の持っている力も。
僕の持っている力なんか、<旧世紀>全体の力から見たら、本当にちっぽけでしかないかもしれないけれど。
この力ですら、僕の、そして僕の関ってきた「日常」を粉々にしてしまうには充分すぎる力だった。
けれども。
この力がなければ、僕はここまで来られなかった。
この銃と、そして、ラギと。
帝国戦艦を沈めたモノが、こちらに近付いてくる。
以前見掛けた強襲艦に似た、しかしそれよりももっと大きな船。
それがばらまいてくる翼のついた小さな機械と、そこから吐きだされる雷撃を、ラギが縦横無尽の動きで擦り抜け。
光の矢を防ぐ壁にもなるその機械を、僕は銃で撃ち落とす。
防御の手段を失ったそれを瞬く間に沈めて。
力強く羽ばたきながら、天の矢(スカイダート)は僕を確実にあのフネへと導いて行く。
迷いのない、蒼い空の翼。
僕の、たった一人の親友。壊すためだけじゃない、護るためにその力を使う、誇り高い<旧世紀>の末裔。
ラギの背中で、棲む物すらいないかのようなこの荒れ地にも適応したらしい攻性生物が、群れをなして跳び上がってくるのを片っ端から撃ち落としているうちに。
恐怖が、不意に薄らいだ。
…あと少し。あと少しで、追い付ける。
大きく羽ばたいたラギが急上昇した、その直後。
氷海の水面がざわめくと、さっき沈めたはずの船が巨大な盾を従えて再び上昇してくるのを横目で見ながら、僕は銃を握り締める。
やっと、ここまで来たんだ。
もう、何者だろうと僕たちを止める事はできない。
雲の上で、僕らはやっとシェルクーフに追い付いた。
真っ白い壁面の横に、寄り添って飛んでいるのはあの蒼いドラゴン。
その巨大な、しかしシェルクーフに比べたらあまりにも小さなその影が船の下へと消えていくのを見送る間もなく。
無数の攻性生物たちが、僕らを発見すると次々に襲い掛かってくる。
次々と吐きだされる酸性の泡や雷撃をくぐり抜け、一気に甲板の上へと躍り出たラギが、光の矢で甲板に張り付いていた砲台を一掃。
その間に、背後から追い付いてきかけていた攻性生物を僕が銃で撃ち落とす。
長い旅の間に、父さんの言っていたような甲殻の隙間、攻性生物の急所でもある目に弾を叩き込む方法も覚えた。
一介のクーリア使いでしかなかった僕が、今では一人前のハンターにも負けないくらいの技術を身につけているなんて、もしも父さんが今の僕を見たら、何て言うだろうか。
ハンターとしての父さんを、僕はよく知らない。
けれども、きっと父さんは言うのだ。
昔、旅の話をせがんだ時のように、僕の頭に大きな手を置いて。
「お前には、色々な事を教えてやりたい」と。
そしてその向こうで、妹を抱いた母さんが笑う……
「……!」
一瞬にじんだ景色は、風の勢いにたちまち吹き散らされた。
顔を上げ、僕は姿勢を低くするとラギの甲殻にしがみつく。
「行くぞ、ラギ!」
僕の声に応え、一気に加速したラギは、ぽっかりと口を開けたシェルクーフの船内へと飛び込んでいった。
やっぱり、というか何と言うか。
シェルクーフの中には、人の姿はなかった。
ただ壁面に侵入者を撃退するための移動砲台がへばりついているだけで、動くものは見当たらない。
隔壁が開くたびに動きだすそいつらを破壊しながら、曲がりくねった通路を飛んでいた僕の耳に、低い唸るような音が届く。
この音は、聞いた事がある。帝国戦艦のエンジンの音だ。
発掘物を使用している帝国戦艦と同じ音がする、という事は、きっとこれもシェルクーフのエンジンの音なんだろう。
だったら。
そいつを壊してしまえば、もうこいつは飛べないはずだ。
…行こう。
ラギが短く鳴いて、音が聞こえる方へと方向転換する。
隔壁が開いた瞬間飛びだしてきた攻性生物の群れを、その光の矢が薙ぎ払った。
いきなり、視界が開けた。
外へと飛びだした僕らの目の前には、シェルクーフの巨大なエンジンがゆっくりとはばたくように動いている。
そして、一斉にこちらを向く砲台の数々。
ぼろぼろと吐きだされてはこちらへと飛んでくるミサイルを撃ち落とし、または躱しながら、僕は一つずつ、確実に砲台を狙い撃つ。
全部沈黙させたあたりで、ラギと僕は今度はエンジンに向かってお互いの武器を乱射した。エンジンは大きいから、狙いをつける必要すらない。
やがて、一つが爆発したのを皮切りに三つあったエンジンは次々と炎を噴き出しながら雲の下へと落下していく。
がくん、と、シェルクーフの巨体が傾いた。
沈むフネにすら動揺する様子を見せずに襲い掛かってくる攻性生物の残骸が、はるか地表へと落下していくのを見送りながら、僕たちは再び中に突入していく。
傾きはしたものの、今だにシェルクーフは飛び続けている。
エンジンを壊しただけじゃ、駄目なんだ。
さっきの戦艦と同じだ。それ自体がほとんど攻性生物のような<旧世紀>のフネを完全に沈めるためには、その中枢を叩かなければ。
けれど、それは何処だ?
…アレが、下にいる。
ラギの声に、僕ははっとした。
さっき、フネの真下に潜り込んでいったあの蒼いドラゴン。
あいつの役割がフネを護ることなら、一番重要な所にいるはずだ。
だったら。
「こっちか!?」
下へと伸びる通路を見つけて、僕は迷わずラギに指示を出した。
空色の翼を羽ばたかせ、ドラゴンは通路を駆け抜ける。
行く手を阻むのも、全てを打ち砕いて。
長い通路を抜けた僕らの目の前には、異様な光景が広がっていた。
フネの先頭、そこにサナギのような物がぶら下がっている。その中には、巨大な何か。
もぞり、と動いたそれが、周囲を覆う隔壁の隙間からこちらを「見」た。
無機質で、けれども攻撃的な光をたたえた、紅い瞳。…攻性生物の眼だ。
「こいつは…」
負けないように、その瞳を睨み返しながら僕は呟く。
これがサナギだとすると、もしかして…あのドラゴンか?
ならば、これこそがこのフネの中枢なんだろうか。
…何にしろ、こいつをどうにかすればフネを護るものがいなくなるのは確かだ。
ゆっくりと銃を構え、狙いをつける。
まずは、邪魔な隔壁からだ。
弾丸を受けて弾け飛んだ隔壁の間から、残った隔壁を切り裂いて蒼い光の筋が走る。同時に、こちらめがけて降り注ぐ紅い光の粒。
「来るなら…来いッ!!」
僕はもう、お前なんか怖くない!
それらを避けるため、縦横に激しく揺れるラギの背中の上で。
僕は、そいつの目を睨み付けながら叫んでいた。
長かったのか、それとも短かったのか。
気が付いた時には、フネのあちこちから黒煙が上がり、「白い災厄」はその巨体を雲の海に向けてゆるやかに落下しはじめていた。
巻き込まれるのを避けて、フネの下から飛びだしたラギが上空へ舞い上がる。
これで、村のみんなの仇を取った…終わったんだろうか。
エンジンを片方失い、白い外壁のあちこちに穴を開けながら沈み始めるシェルクーフを見下ろしながら、僕はぼんやりとそんな事を思う。
そして、この後どうしたらいいのか、全く考えていなかった自分に気付く。
僕とラギは、一体どこにいけばいいんだろうか?
その時の僕は、全く気付いていなかったのだ。
崩壊の黒煙に包まれながらも、あのサナギはまだ無事だった事に。
僕らの足元から、あの蒼いドラゴンの巨大な影が雲を割って出現し始めている事に。
……そう。
まだ、何にも終わってなんか、いなかったんだ。