乾いた大地を、大きな鉤爪がさらに乾いた音を立てて蹴りつける。
 僕を背に乗せ、半年で大人のクーリア並みに大きくなったラギの駆け抜ける荒れ地に、足音に混じって時折響く重い音。
 ラギのはばたきに合わせて、その音は風に乗って空へと抜ける。
 「…やった!」
 一瞬だけだったけどラギの身体が宙に浮かんで、僕は思わず歓声を上げた。
 最近、運動させるために走らせていると、時々こういう事が起きる。
 はばたく力が上がってきている証拠だ。今はまだ浮かぶだけだけど、この調子なら、本当に空を飛べるかもしれない!


 夕焼けが、豪奢な室内を紅く染め上げる。
 「…メッカニアなどに構うな…」
 重く、しわがれた声が、部屋の主の口からもれた。
 浮遊式の椅子に腰掛けた老人の背後に掛けられたタペストリーには、盾と太陽を象った紋章。
 <旧世紀>文明の正当な後継者をもって自認する唯一の人間…帝国皇帝。
 「その巨大な「空飛ぶ船(シェルクーフ)」とやらを追え……なんとしてでも、あれを手に入れるのだ」
 「はっ」
 老人…皇帝の言葉に、椅子の前、ひざまずいて深く頭をたれた男が、さらに深く頭を下げる。
 忠実な家臣がその場を慌ただしく立ち去るのを待たずに背中を向け、夕焼けに染め上げられた帝都を見下ろしながら、老人は呟く。
 「伝説の「塔」…まさか、船とはな…」


 風の音が、耳元で鳴っている。
 大地を蹴るラギの足音が、それにかぶさる。力強い響きに合わせて、ぐんぐんとスピードが上がっていく。
 「今日こそ飛んでやる…行くぞ、ラギ!」
 僕の叫びに、その長い尻尾でバランスを取りながら、きゅいぃっ、とラギが答えた。
 丘の頂上が、ぐんぐん迫ってくる。
 真下に広がる、いつもと全く変わらない村の風景。
 あの上を僕らが飛んだら、みんなはどんな顔をするだろう?
 1年もの間、みんなを騙して変種の仔…ラギを育てていた事を、怒るだろうか?それとも、伝説のドラゴンそっくりのラギに、感嘆の声を上げるだろうか?
 どっちだって、別に構わない。飛べる、という事が証明できれば。
 たとえ怒られたって、僕たちには翼がある。
 誰も、ラギを捕まえられっこないんだ。
 くすくす笑いながら、ふと僕は村の上に何かが浮かんでいるのに気付いた。
 「何だ、あれは…?」
 大きな、真っ白いそれは、まるで父さんの話に聞いた「フネ」みたいだった。
 でも、あれは確か水の上の乗り物だったはずだ。
 それに、あの真っ白い外壁、あれはまるで帝国の空中艦隊がつけているエンジン…<旧世紀>の発掘物そっくりの……
 僕がそんな事を考えていた、次の瞬間。
 そのフネは村の真上を一周し…いきなり、一筋の光の筋を村へと落とした。
 すさまじい閃光と爆風に、僕は思わず目をつぶり、同時にラギの手綱を力一杯引き絞っていた。
 やがて、固く閉じたまぶたの裏からも光が消えた頃。
 僕に手綱を引っ張られたままのラギが、小さくきゅるる、と鳴いた。
 その声が、僕に何か教えたがっているように聞こえて。
 恐る恐る目を開け…僕はそこに、信じられない物を見た。
 薄く煙をあげ、無残な焼け跡と化した村を。
 「そんな……」
 呆然と呟いた声は、ひどくかすれてた。
 まるで、僕の声じゃないかのように、ひどく遠くから聞こえてくる。
 なのに。何故か、涙は出なかった。ただ、何も考えられなかった。
 一瞬で村を焼け野原に変えた白いフネは、何事もなかったのように村の上に浮かんでいた。やがて、ゆっくりと向きを変えると空の彼方に遠ざかろうとする。
 何もできずに、それを見送るしかできなかった僕の視界の隅で何かが光った。
 ラギの喉元で、徐々にその光を強めていく、青白い輝き。
 その輝きは、ラギの口の中から不意に4本の蒼い光の筋になって、遥か上空のフネへと放たれる。
 反動で後ろに下がりながら、フネに向かってラギが鋭く鳴いた。
 まるで、挑みかかるように。
 「……光の…矢……」
 間違いない。村の伝承で、何度も聞いた。
 ドラゴンの口から放たれ、その敵を瞬時にして焼き尽くす、裁きの光。
 再び、鋭い声を上げるラギの背の上で。
 僕は、ただ呆然とするしかできなかった。
 小さなラギ…僕のドラゴン、決まり切った「日常」を、根元から変えてくれるもの。
 初めて見たときから、ずっとそう思ってきた。
 『ラギの翼で、いつかこの日常から離れてどこかに行きたい』
 そう願った僕の夢は、本当になってしまったのだ。
 今まで僕の周りにあった現実、全てを犠牲にして。
 白いフネに向かい、何度も吠えるラギの喉元で。
 蒼い光の紋章だけが、静かに輝き続けていた。

   ……『それは不吉の光だ』と、言っていたのは…誰だっただろう?…

 村へと下りてきて、僕は、改めてその無残な状況に言葉を失う。
 石造りの壁だけを残して黒焦げになった家の残骸の中では、かろうじて生き残ったらしいクーリアが数頭、怯えて辺りを走り回っている。
 村はずれの僕の家も、完全に焼け落ちていた。
 結局僕の手元に残ったのは、いつも村の外に出るとき護身用に、と持ち歩いていた、父さんの形見の銃がひとつだけ。
 父さんが若い頃、遺跡で拾ったという<旧世紀>の銃を、撃った事はない。
 少なくとも、父さんの話によれば弾切れの心配がないらしい事だけが救いだ。
 そして、僕に残ったもう一つ…ラギ。
 「行くよ、ラギ」
 背中の鞍にまたがり、ラギの首筋を軽く叩いて僕は声をかける。
 翼を羽ばたかせ、風を巻き上げたラギが一声鳴いて走り出した。
 まだ村の上空に浮かんでいる、白いフネへと向かって。

 まだ煙を上げる村の焼け跡の中には、攻性生物が何匹も蠢いていた。
 フネと同じ、真っ白な殻を持つこいつらは、村の周囲では見掛けない種類だ。父さんの言ってた、「血統書つき」という言葉がふと頭をよぎる。
 <旧世紀>の遺跡には必ずいる、真っ白い殻を持った、そんじょそこらの攻性生物なんか比べ物にならないくらいに固くて速い、そして強い奴ら。
 こいつらは、あのフネから出てきたんだろうか?
 巨大な蟲めいたその殻に、僕の銃とラギの光の矢が叩き付けられる。何度も、何度も。
 ばらばらに吹き飛ぶ脚や爪の間をかいくぐって走る僕らの後ろで、低い、錆びた吠え声が響いた。
 振り向くよりも早く。
 真っ黒い…いや、ほとんど黒に近い蒼い色をした翼が、目の前を横切った。
 「…ドラゴン…!」
 ラギの数倍はある、その巨大なドラゴンは、長い尾を打ち振りながら上空に浮かぶフネへと飛ぶ。
 そいつが一声吠えた瞬間。
 フネから、地響きを立てて巨大な岩が落下してきた。
 このままでは潰される。
 「くそっ!」
 必死で、僕は銃を乱射した。ラギが短く吠え、ありったけの光の矢を放つ。
 間一髪で砕け散った岩の背後から飛びだしてきた攻性生物を立て続けに撃ち落とし、僕たちはさらに走る。
 巨大な攻性生物の足元を駆け抜け、村の入り口を過ぎたあたりで、あのフネが見えた。
 すぐ真上だ。
 銃は…駄目だ、届かない。
 ラギの光の矢も、フネの真っ白い外壁に届く前に細くかすれて消えてしまった。
 「飛んでくれ、ラギ!」
 僕の声に答えたラギが、大きく羽ばたいて地を蹴った。
 そのまま、一直線に舞い上がる…その時。
 あの蒼いドラゴンが、再び僕らの背後から錆びた声を上げて飛んでくる。
 不意にやって来た衝撃と、落下。
 そいつはいきなり、その長い尾でラギもろとも僕をはたき落としたのだ。
 地面に叩き付けられ、したたか頭を打った僕の、かすんでゆく視界の中。
 二つの月が浮かぶ夜空を背景に、そいつはその翼を優雅に羽ばたかせながら浮かんでいた。まるで、フネを護るかのように。

 しばらくして。
 ラギに頬を舐められて、僕は気が付いた。
 白いフネは、すでに夜空の向こうへと遠ざかっている。
 その傍らを飛ぶ影は、きっとあのドラゴンだ。
 フネの飛んで行った方向を確認してから、僕は村に転がる攻性生物の死骸から、今後使えそうな物を引きはがしにかかった。
 甲殻と爪、水袋の代わりに使う内蔵と肉、そして燐光石をいくつか。
 夜が明けた頃、簡単な荷造りを終え、それらをラギの鞍にくくりつけると僕はその首にまたがった。
 僕に残されたたったひとりの親友に、出発の合図をする。
 「行こう、ラギ」
 一声鳴いて、ラギが走り出す。
 荒れ地を吹き抜ける風が、一瞬、僕に呼びかけた気がした。
 『さよなら』と。