「なるほど、こりゃ誰も引き受けない訳だ…」

 そして、誰も足を踏み入れない訳だ、と。フランツィスカ=フランチェスカは一人、納得して弱々しく唸った。視界を覆う白い闇に囲まれて。激しい吹雪に襲われ、じわじわと体力を奪われながら。震えが止まらないのは。身を裂くような寒さだけが原因ではない。彼女は今、死という避けがたい現実を直視していた。
 そのクエストは長らく引き受ける者が現れぬまま、図書院の片隅で彼女を待っていた。誰もが恐れ敬い、決して足を踏み入れぬ…豪雪と嵐のヴェールに覆われた禁忌の山。一歩足を踏み入れた時からもう、彼女には解った。何故、書士隊の皆が頑なに拒んだのかも。禁忌の名が伊達ではない事も…もう引き返す事すらままならぬ事も。

「まいったな…先生、こんな時はどうしたら…いいん、だっ…け、か…」

 もうすぐ会えるだろうから、その時に直に聞こうか?と苦笑して。左右も前後も無い白一色の世界を彼女は進むほか無かった。膝まで積もった雪から足を引き抜く、その一歩を踏み出すだけでも消耗してゆくのが解る。普段から渡り鳥並の方向感覚を自負していたが、今は何処へどれだけ歩いたかも解らない。吹雪を手で遮り目を凝らしても、見えるのは雪、雪、雪…

「此処がわたしの、終着点か…レポート、提出でき、ないなぁ」

 最も、御伽噺の魔女を髣髴とさせる筆頭書士官殿へ、再び生きて会えたとしても。今の自分が報告出来るのはただ一つだけ。正しくこの地は、人智の及ばぬ禁忌の山だという事。真実は掴めずとも、今の彼女にとってはそれが事実だった。それを悔しさと共に噛み締めながら、遂に膝を付き倒れ込むフランツィスカ。
 積もる雪に埋まり、降る雪に覆われて。急激に体温が奪われてゆくのを感じながら。薄れる意識は様々な思い出を瞼の裏へ刻む。図書院の面々や恩師、そして最後に浮かぶ弟分の顔…その頼りない、寂しげな笑みが不意に揺れた。実際に激震が走り、思わずフランツィスカは飛び起きる。

「!?…気分に浸ってる場合じゃない?ならさっ!」

 白一色の世界が真っ二つに裂けたのは、余力を振り絞ったフランツィスカが飛び起きるのと同時だった。雪原の大地を揺らし、凍れる空気を震わせて。目の前に聳えたのは、見た事も聞いた事も無い生物らしき何か。例えるなら巨大な蟲…だが、恩師が語って聞かせてくれた虫龍とはまるで違う。龍と言うよりは巨大なワーム…それでも図書院やハンターズギルドとしては、古龍としか言い表せない物体。

蟲。

「こりゃ大発見…報告出来そうもないけど。それにっ」

 踏み出す足がふらつきよろけて、思わず膝に手を付きながら。渾身の力を振り絞って、フランツィスカは馳せる。背負う太刀の柄に手を掛けながら。未知の生物を前に、疲労と消耗を上回る好奇心。それ以前に、飛び出さずにはいられないのは…謎の巨大生物は今、哀れな獲物を捕食せんと吼えていたから。異形の生物が目指すのは、ボウガンを構えて逃げ惑う金髪の少年。その姿が足を止め、遂に力尽きて倒れた瞬間…フランツィスカは抜刀と同時に飛んだ。つもりだった。

「っつ!動いてよ、わたしっ!あの子、あのままじゃ…!?」

 再び倒れこんで臍を噛む、フランツィスカの視界に飛び込んできたのは。白一面の背景を切り裂いて、少年と異形の間に割り込む影。その人物は手にした盾で貪欲な牙を弾くと、渾身の一撃を無言で繰り出す。乾坤一擲、鈍い音を立てて甲殻が砕かれ、鋼の鉄槍がワームの巨躯を貫く。耳を劈く断末魔と共に、身を捩って怪物が息絶えた。

「廃棄ナンバー08、デ・ロル・レ…処分完了」

 横たわる骸は吹雪に曝され、その巨体はみるみる雪に覆われてゆく。呟くような男とも女ともつかぬ声を微かに聞きながら、フランツィスカは薄れゆく意識を総動員して現状の把握に努めた。人を決して寄せ付けぬ、禁忌の山の奥底で今…未知の生物と遭遇したばかりか、自分以外の人間を確認したのだ。それも二人も。その片方、少年を抱き起こす狩人にどこか懐かしい気配を感じながら…彼女もまた深い眠りへと誘われていった。