「おやおや、御嬢ちゃん…もう具合はいいのかい?」
「姉ちゃん、あの嵐を超えて来たってな…てぇへんだっただろ」
「コイツをやるよ、立派なもんだろ。これから釣り?そりゃいいさ」

 ええスッカリ、と散歩中の老婆に微笑み返して。そりゃもう、と大工の親方には肩を竦めて見せながら。畑へ向かう農夫へ礼を述べ、放られた林檎を受け取るフランツィスカ=フランチェスカ。彼女はそれを軽く袖で拭って、思い切り良くかじりながら…改めて自分の置かれた状況を整理し始めた。程よい酸味と甘味を堪能しつつ。
 恐らく村で一番の大通りであろうこの場所で、切り株に腰掛て半刻も経たぬが。行き交う人々は皆、気さくに声を掛けてくれる。それが異邦人への物珍しさからくる物ではなく、ごく自然なものだと彼女は感じていた。よそ者を異端視する傾向が微塵も感じられぬ一方、外界人への興味も薄いらしい。人の良い純朴さだけが、この村の誰からも見て取れる。ある人物以外は。

「おはよう、いい村だろう?王立図書院の調査員さん」
「ああ…皆、優しく穏やかな人ばかりね。若干一名を除いて」

 何時から居たのか、件の人物が傍らに立っていた。どうやら今日も、これから狩りに出るらしい…槍を背負い盾を抱えた、一人のモンスターハンター。その見下ろす涼しげな顔へ、彼女はどうしても訝しげな視線を隠せなかった。命の恩人であるにも関わらず。

「リーネはキミに良く懐いてるし…はて、誰の事だろうね?」
「わたしの荷物を返してくれたら教えてあげる、ええと…」

 この時初めてフランツィスカは気付いた。命の恩人の名をまだ聞いていないという事を。利発そうな表情を僅かに曇らせ、自分の迂闊さを呪う。思えば、落ち着いて思案を巡らせ物事を整理するのも、この村へ来てから初めてだったから。それまでは自分でも、驚嘆に囚われていたと認めてはいたが。

「ボクはポッケ。取りあえずこれだけお返ししておくよ、ジスカ」
「っと…何それ?わたしのこと?」

 趣があっていい名だけど、ちょっと長いから…そう言うハンターはポッケと名乗り、王立図書院の身分証であるタグを手渡した。呆気に取られつつ、フランツィスカはそれを受け取り、そこに刻まれた名を改めてまじまじと見詰める。

「そう読めるだろう?ボクも皆もキミのことを、そう呼ぶことにするよ」
「うーん、まぁ取りあえず…ありがと。助けてくれた事も」

 どういたしまして、と笑うポッケは、風変わりだが何処にでも居るハンターに見える。初めて会ったあの日の、何時かの誰かに似た印象は微塵も感じられない。ともあれ、タグの鎖を首にかけ、胸元にそれを仕舞いながら。フランツィスカは…今やジスカと呼ばれる女性調査員は、あれこれポッケに問い質した。
 探りを入れるように、決してそれを悟られずに。あたりさわりのない事から聞いてゆくジスカ。その意図を知ってか知らずか、ポッケは飄々と答えてのける。つまり彼が言うには、ここは名も無き辺境の寒村で、土地柄から外界との接触が皆無であるらしい。ジスカはそれらの情報を、あくまでこの村唯一のハンターの談話として、記憶に留め置いた。

「まぁ、そう図書院には報告するしか無いんじゃ…おや、待ち人来る、だね」
「御姉様ぁ!ハァハァ…お待たせしましたっ、お弁当!ママが持ってけって」

出掛けますか。

 全力疾走で掛けてきた少女は、前のめりに緊急停止すると、大きなバスケットを誇らしげに突き出した。深く立ち入った話を切り出そうとしていたジスカはしかし、ポッケの笑顔に黙秘の意思を見て取ると。釣竿片手に立ち上がり、努めて平静を装いながらコートの裾を払う。満面の笑みで見上げる、リーネに微笑み返しながら。

「じゃ、ジスカ…良い休息を。のんびり過ごすといいよ。釣りなら穴場が…」
「お任せ下さい、師匠!今日はリーネが、御姉様へ村を案内して差し上げるのですっ」
「んじゃま、お言葉に甘えて。アズラエル君に何か、精のつく物を釣ってあげよかな」

 それが彼の名か、と。ポッケは形の良い顎に手を当て、フムと唸った。アズラエル…それが例の少年の名。リーネはその名を心へ、しっかり刻んで思い出す。同年代ながらもどこか大人びた、冷たい瞳の眼差しを。同時にその全身像が記憶から蘇り、頬が火照るのを感じながら。慌ててリーネはジスカの手を取ると、村外れの池へと走り出した。