「おやおや、坊や…もう具合はいいのかい?」
「坊ちゃん、あの怪我がもうスッカリかぁ…たいしたもんだ」
「コイツをやるよ、立派なもんだろ…っておいー、どこに行くさー」

 知ったことか、と散歩中の老婆を睨み返して。放っておけよ、と大工の親方を無視しながら。アズラエルは農夫から林檎を受け取り、礼も言わずに歩き出した。真っ赤な林檎はなるほど立派だが、さして興味も食欲もそそらない。それでも無遠慮にかじりながら、彼は大通りを歩き出した。
 怪我はもう既に、ほぼ完治に近い状態だった。それでも世話になってるリーネの家では、毎日親切に包帯を取り替えてくれるが。もともと北海の荒波で育ったアズラエルには、この程度などもう掠り傷に等しい。だからこそ今、彼は虎視眈々と機会を窺っていた。この温かくも不安を掻き立てる、優しい村を出る瞬間を。

「それにしても…あのポッケとかいう奴。いったい何を考えてるんだ!?」

 周囲に意味の通らぬ母国語で、アズラエルは一人毒吐く。刺々しい空気を纏って歩く少年に、村人は誰もが振り返って声を掛ける。だが素朴なふれあいは逆に、アズラエルの苛立ちを増幅させた。彼は、今すぐにでもこの場から消え去りたい…そんな気持ちで一杯なのだ。向けられる優しさは自らの猜疑心を掻き立て、不安定な精神を際限無く苛む。そして昨日の出来事をまた、何度も何度も思い出させるのだ。

『実は、ちょっとお願いがあるんだけど。ああこれかい?随分と扱いが酷いね、キミは』

 怪我が快方へと向い、その傷が十分に癒えたのを確信して。アズラエルがノックもせず、勢い良くドアを開けた時。その家の主人は机に腰掛け、見慣れたショットボウガンを手入れしていた。つい先程来客があったらしく、テーブルにはまだ暖かな茶碗が二つ…しかし、アズラエルの目には入らない。

『狩りの道具は狩人の命、もっと大事に…おっと!ダメダメ、まだ渡せないよ』

 大股でズカズカと歩み寄り、自分のボウガンをひったくろうとするアズラエル。しかしポッケに、それを渡す気は微塵も無く。高々と翳されたボウガンへと、何度か両手を伸べ…やがて諦めたアズラエルは、一際険しい目付きで睨み付けた。猛り逸る少年を前に、平然と足を組み替え視線を受け流すポッケ。

『かっ、返して下さい!それは私のボウガンです』
『キミの言葉でいいよ、二人しか居ないしね。それよりどうかな?ボクのお願いを…』
『いいから返せよ!もう沢山だ、俺は出て行く…もう出て行くんだ!』
『元気なのは結構、怪我も治ったみたいだし。で…何をそんなに怯えてるのかな?』

 アズラエルの鼓動が早まり、呼吸が止まった。自分でも整理のつかぬ、この村での苛立ち…それは確かに、内より湧き出る怯えだったから。だから今も、ポッケの指摘する声が耳朶に張り付いたように、何度も何度も胸の内へ木霊する。正鵠を射た一言にその時、アズラエルの気勢は挫けた。

「俺が怯えてる?ああ、そうさ畜生!お前に解るもんか。きっと誰にも…」

 忌々しい記憶を振り払うように、ムシャムシャと林檎を貪りながら。アズラエルは誰にと無く呟き、否応にも悔しさを反芻した。確かにこの村で、アズラエルは独り怯えていた。温かな村人達の、純粋な厚意に。その厚意を甘受しつつ、疑い勘ぐる自分に。優しさが丸みを帯びた刃となって、ゆっくりと少年の丁寧に心を刻んでゆく。

「ああクソッ!早く独りに、誰も居ない場所に行きた…ん?あれは」

 精神的な豊かさに潤えば潤う程、餓えて渇く。そんな、虚勢を張り巡らせた小さな気持ちを乗せて。今、独りで村外れへと歩くアズラエル。彼は林檎の味さえ解らぬ程に荒んで居たが、ふと小さな人影に気が付いた。自分でも不思議と感じたが、直ぐに納得…思い出されるポッケのお願い。
 特徴的な前髪を揺らして、その少女は真剣な眼差しで弓を構える。無人の広場に的を並べて。世話になってる家の一人娘、リーネ。力んだ様子でぎこちなく、矢を番えて弦を引き絞る姿は、いかにも危い印象をアズラエルに抱かせた。どう見てもド素人の、見様見真似にすらなっていない。

『北海の民は弓矢を狩りに使うだろう?ボクが会った時はそうだったけど…どうかな?』

 一方的なお願いを、頭を振って脳裏から追い出すと。それでも林檎の芯を投げ捨て、アズラエルはリーネに気付かれぬよう歩み寄った。今は不本意でも、交換条件を呑むしかない…そう自分に言い聞かせながら。