「ん、あれは…おーい、アズくーん!どしたの?」

 息を切らせて膝に手を付き、今来た道を振り返りながら。額の汗を拭うアズラエルを見つけて、リーネは弓を下ろして声を掛ける。その呼び掛けに気付いたアズラエルは、無意識に足が向った先が、先程話題になった人物と知ると、やや表情を強張らせた。

「別に…貴女には関係ありませんよ」
「そかな、何かあったんじゃない?よっ、っとっとっと」

 リーネは弓を畳んで背負いながら、よろけつつアズラエルへ駆け寄る。その危なげな姿を見やりながら、漠然とアズラエルは考えた。何故、町外れの空き地へ…リーネが弓矢の練習をしていると知ってて、この場所へ逃げて来たのだろうか、と。今だ感情の昂ぶりは収まらず、それを体現するように両肩で息をしながら。彼は黙って、呆然と立ち尽くした。

「ねね、話してみてよ…村の誰かに何か言われた?それとも…」
「放っておいてください、貴女には関係ないと言ったで…!?」

 その頑なな、断固とした拒絶は却下された。

「ダメだよっ!だって…だってアズ君、泣いてるんだもの」

 そう言いながら、リーネの指に頬を拭われて。初めてアズラエルは気付いた。自分が涙を流している事を。そう、泣いていたのだ…ジスカの正論を振り払い、己の葛藤を抱いたまま駆けながら。悲鳴を上げる自らの心が、涙となって溢れ出たのだ。その事に気付くと、慌ててアズラエルはリーネの手を振り払う。

「これは別に…たまたま、その…」
「ううん…アズ君は今、嘘ついてる。話してみて?リーネ聞くから」

 柔らかく暖かな、無垢の善意が襲い来る。それを信じることの出来ない、汚れた罪悪感を引き連れて。胸の奥に沈めて、未来永劫押さえ込もうと誓った感情が、堰を切ったように流れ出る。もう止めようにも止められず、相手を気遣おうにも気遣いきれなかった。噴火した活火山の如く、負の感情を迸らせて口火を切るアズラエル。

「聞く?貴女が?聞いてどうするんです…受け止められますか?私は…俺は故郷で…」

 リーネの華奢な両肩を掴む、その手に力が篭る。その激痛に一瞬顔を歪めるリーネにも構わず、感情に任せてアズラエルは怒鳴り散らした。既にもう、故郷の言葉を吐き出しているとも気付かずに。我を忘れて喚き散らすアズラエルを、ただ黙って見詰めるリーネ。
 悲痛な独白はとめどなく溢れる。頬を伝う涙も構わず、遠い北国の言葉で。見上げるリーネの瞳に映るのは、幼子のように泣きじゃくるアズラエルの姿。その時始めて、彼女は出会ったような気がした…本当のアズラエルに。冷たい心の奥底に秘めていた、ありのままのアズラエル自身に。

「俺は…私は、汚れています」

 ようやく落ち着き、最後に搾り出すように呟いて。アズラエルは強く握り締めていた、リーネの両肩を放す。驚き戸惑いながらも、リーネはそっと手を伸べた。俯くアズラエルの、涙に濡れた頬へ。自分よりも背の高い少年が、今は酷く小さく見えて。その手を振り払い、踵を返すアズラエルを、そのままにしてはおけなかった。

「!…はっ、放して下さい。私は…」
「ずっとそうやって、独りで頑張ってくの?そんなのヤだよ…」

 駆け出すアズラエルの背中を、抱き締め引き止めるリーネ。

「リーネ、受け止めるよ。だってアズ君のこと…」

 頬を埋めて呟く、その背中が小刻みに震えている。アズラエルは嗚咽を漏らして天を仰ぎ、そのまま膝を付いて崩れ落ちた。もう一度だけ…最後にもう一度だけ。人を信じてもいいのかもしれない…この村なら。降り始めた雪に冷え込みは一段と強さを増すが…背中に触れる温かさに、アズラエルは心の奥底が氷解してゆくのを感じていた。