額に光る玉の汗を拭って、アズラエルは身を起こして大きく伸びをする。日差しは弱いものの、天高く雲一つ無い快晴。正しく今日は、鍬を振るって苗を植えるには、絶好の日和だった。結局ジスカの調査は頓挫し、彼女はアレコレ考え込みながら、毎日を釣りに費やしている。古文書解読の必要が無くなったアズラエルはと言えば、今日の様に田畑を耕したり、親方と雨漏りを直したりと充実の日々を過ごしていた。

「さて、と!日が落ちる前にもう一働き…うん?あれは…」

 ふと顔を上げた視界の片隅に。見知った顔が横切るのをアズラエルは見逃さなかった。が、怪しむ気持ちも無い…きっと氷室に用事があるのだろう。彼が思った通り、ポッケは農場の隅の、食料等を貯蔵している洞窟へと消えて行く。その背を見送るアズラエルは、不意に自分を呼ぶ声に心を弾ませた。

「いたいたっ、親方の言った通りっ!アズくーん、おーいっ!」

 村と農場を繋ぐゴンドラから、転げ落ちるように飛び降りると。手を振り駆けて来るリーネ。その表情は普段にも増して快活に輝き、真っ直ぐに全速力で走る。気付けばアズラエルは自然と、両手を広げていた。何故?そう自問自答する自分の胸に、勢い良くリーネが飛び込んでくる。

「やったよアズ君!あのね、あの…うう、やったぁ!」

 思いっきり抱き付き、勢い余ってアズラエルと一緒に一回転。ふわりと裾が翻り、短い抱擁の後に地へ足を付くリーネ。何故か頬を赤らめ、呆然とするアズラエルを見上げて。彼女は全身全霊で喜びを表現しながら、瞬く星の如く瞳を煌かせる。

「師匠のお許し、出ましたっ!リーネも今日から、モンスターハンターですっ!」
「!?…お、おめでとう御座います」

 はしゃぐリーネはアズラエルの手を取り、無邪気に飛び跳ね小躍りする。祝いの言葉を述べながらしかし、アズラエルは正直それどころでは無かった。その温もりが、その眼差しが…息を詰まらせ心音を高鳴らせる。以前から意識しつつ理解できなかった気持ちが、今はっきりと身も心も支配している。

「っと、そうだ!御姉様にも御報告しなくちゃ…アズ君、また後でね!」
「え、ええ…あの、その…ほっ、本当に!おめでとう、御座い、ます…」

 熱っぽい顔を俯かせて、精一杯呟くアズラエル。満面の笑みで頷き、再び弾かれたようにリーネは走り出した。が、何かを思い出したかのように、前のめりに急減速。そのまま振り返らず、黙って止まった。今になって気恥ずかしさが込み上げてくる…浮かれてつい、抱き付いてしまったから。

「そそ、そっ、そう言えばアズ君のお陰だもんね。アズ君が弓、教えてくれたから…」
「?…い、いえ、私は別に…少しだけお手伝いしただけ、ですから」

 照れつつ謙遜するアズラエルに、予想外の不意打ち。突然振り向いたリーネは、再びアズラエルに身を寄せると…つい、と背伸びして、その頬に唇で触れた。ほんの僅か、一秒にも満たぬ時間。互いに真っ赤になった顔を、見合わせる事も出来ずに。すぐさまリーネは離れると、ゴンドラへ向って走り出した。

「アズ君、ありがとっ!ホント、ありがと。でも、お礼って意味だけじゃ…ないから」

 最後にそう言い残して、リーネはゴンドラに飛び乗った。見送るアズラエルはただただ立ち尽くし、先程柔らかな感触を感じた頬を撫でる。自分でも驚く程に顔が熱い。その熱量はもう、過去より染み出て澱む暗い記憶が、自身を苛む余地すら与えてはくれなかった。
 果たして自分に、そんな幸せを享受する資格があるのか?人から好かれ愛される、その価値があるのか?以前なら必ず、心の底から忍び寄る自己嫌悪。だがもう、それすら認め許されていると感じて。アズラエルは頬の火照りが収まるのを待って、リーネの後を追った。