凍てつく雪原の大地より、刺す様な冷気が這い昇る。耐え難き寒さを耐えながら、ジスカはじっと息を殺して身を伏せる。白い息すら噛み殺して。
 こうして気配を消し去り、自然の一部に同化した今…彼女は自分が狩人である実感を確かな物にしていた。王立図書院の一員とは言え、書物を紐解き筆を走らせるより、こうして現場に居る方が性に合っている。ジスカはそう思うと、久々の狩りで高揚する気持ちを落ち着かせる。

「来た。うん、手頃な獲物…どう?」
「いいね。それじゃ、お手並拝見といこうかな」

 同じく傍らに潜んでいたポッケは、二人の前に現れた巨大な獣を前に、ジスカへ挑戦的な笑みを返した。誘っておいて人任せとは、何とも図々しい話だが…ジスカは黙って承知する。この所、デスクワークに湯治に釣りと、すっかり身体が鈍っていたから。今はもう、眼前のドスファンゴを前に気が逸る。

「ま、いっか…久々だから手加減ナシ、全力でっ!」

 ふっ、と息を吐いて、再び吸い込むと同時に。背の太刀を手繰り、その柄を握り締め。ジスカは凍えた空気を引き裂く様に飛び出した。一直線に獲物を目指して、新雪を踏み締め大地を蹴る。雷光閃く業物の抜刀は、危機を察知してブルファンゴが振り向くのと同時だった。
 研ぎ澄まされた刃が稲光を纏い、毛皮を裂いて肉を断つ。舞い上がる鮮血が雪原に散り、ブルファンゴの怒号と悲鳴が響く前に。返す刀で払い抜けると、ジスカは素早く獲物との距離を取る。一撃離脱の後、再攻撃の隙を窺いながら。

「やあ、お見事お見事。もういいんじゃないかな?」

 不意に緊張を解いたポッケが立ち上がり、何の警戒心も無くブルファンゴへと近付く。狩りは未だ始まったばかりだというのに。その姿はジスカには、自殺行為としか思えなかった。比較的容易な狩りとはいえ、手負いの獣に対して余りに無防備で。おおよそ熟練ハンターのポッケらしくない行動に、思わずジスカは叫んだ。

「ポッケ!不用意に近付くと…え?嘘、だってまだ」
「そう、本来はまだ…外界なら、ね」

 信じられない光景が視界に広がった。立派な成獣のブルファンゴが、僅か数度斬り付けただけで。低く呻くと天を仰いで崩れ落ちた。それが当然と言わんばかりに立つ、ポッケの足元へ。弱っていた訳でも無く、致命打を与えたつもりも無いのに。僅か数分で、一頭のドスファンゴを狩り終えてしまった。その事実を前に、ジスカはただただ呆気に取られて立ち尽くした。

「手応えが無いだろ?外界の獲物に比べて。ここの生き物は全部…」

 説明を求める眼差しを、気付けばジスカはポッケの横顔へ注いでいた。その無言の問いに答える声を、彼方よりの遠吠えが遮る。吹雪き始めた空は雲が低く棚引き、風は視界を剥ぎ取り荒れ始める。濃密なブリザードの奥底より、何かが近付きつつあった。

「来たか。この辺りは奴の縄張りだし、予定通りだね」
「説明しろ、ポッケ!ドスファンゴだけじゃあるまい?この辺りの生態系は…」

 我に返ったジスカは、吹雪に紛れる雄叫びに竦みながらも、血相を変えてポッケに詰め寄る。遠い視線で近付く咆哮を眺めて、ポッケはただ目を細めるだけだった。

「そう、全てが外界とは違うんだ。ここは閉ざされた楽園だからね」

 嵐と共に、危機が迫りつつある。だが、ジスカは身動き一つせずにポッケの言葉を待った。今、真実が語られようとしているから。