忘れたくない恋がある。一目会ったその時から、徐々に高まり実った想い。忘れられない光景がある。つい先程、初めて一人で外から、自分達の住む村を見下ろした眺め。そして今、生涯忘れないであろう瞬間が、リーネに訪れようとしていた。彼女は今、初めての狩りを経験しようとしている。
 早朝、村を出てより既に時は過ぎ。穏やかな天候は日も高く風は弱い。まるで自身の門出を祝っているようだと、浮かれていたが。今はそんな気持ちも影を顰め、真剣な眼差しで気配を殺し、慎重に弓を構えて矢を番える。視線の先に数頭のギアノス。

「お食事中ゴメンね…いっけぇ!」

 日々の特訓がもたらしたのは、身に染み付いた確かな技術。それを今、リーネは全神経を集中して総動員した。放たれた矢は空気を切り裂き、一直線にギアノスへと吸い込まれてゆく。短い悲鳴を聞くと同時に、花衣の狩人は全力で雪原を蹴った。走りながら二の矢を番えて、迷わず狙いを定めて放つ。一撃目を背に受け、振り向いた一頭のギアノス。その脳天に必殺の一矢が突き立ち、群は四散して逃げ出した。

「やった…は、初めて獲物を狩っちゃった」

 自分でも驚く程に、初めてにしては手際良く。リーネの肉体は自分がイメージした通りに動き、獲物を手中に収める事に成功した。昨日の夜まで不安で眠れず、恐怖に震えていたのに。それらは全て、まるで無かったかのように払拭されていた。一人の少年の手によって。
 興奮に高鳴る胸を押さえながら、改めてリーネは獲物を見下ろす。つい先程まで、確かに躍動していた一頭のギアノス。それが今、静かに雪に身を横たえている。生まれて初めての獲物がリーネには、宝石の塊のようにさえ感じて。暫し、その姿に見惚れ佇んでいた。

「っと、いけない!剥ぎ取らなきゃ…」

 ふと我に返り、リーネは腰のナイフを手に取ると、既に冷たくなったギアノスへと突き立てる。やり方は師が教えてくれたが、実際に獲物から素材を剥ぎ取るのは初めてで。慣れない作業もしかし、今の彼女には嬉しくて仕方が無かった。自分は今、憧れだったハンターとして、その記念すべき第一歩を踏み出した…筆舌し難い高揚感に自然と笑みが零れ、夢中で不器用に素材を切り出してゆく。

「っと、取れた!わぁ…綺麗」

 それは新米ハンターへの、大自然からの最初の贈り物。白く薄いギアノスの鱗は、翳せば弱々しい日差しに透けて輝く。角度を変える度に光沢の変化するそれを、リーネは暫く手にしたまま見詰めていた。一枚では何の役にも立たないが、同じ要領で集めていけば、やがて彼女を守る大事な防具になる。だが今は、それ以上の意味が、ただ一枚の鱗に込められていた。

「そだ、これはアズ君へのお土産にしよっと。よし!この調子でガンガン狩って…ん?」

 大事そうに最初の戦利品を、リーネはポーチへ仕舞いながら。ふと、ギアノス達が啄ばんでいた巨大な死骸に目を留める。既にアチコチ食い散らかされ、半分以上が雪に覆われていたが。漆黒の剛毛に覆われたそれは、リーネの知識に無いものだった。強いて言えば、ジスカが語って聞かせてくれた、牙獣種のドドブランゴやババコンガに似ていたが…明らかにそのどちらでもない。片方折られているが、頭部に左右対となる角があったから。

「なんだろ、これ…しかもこの傷」

 謎の死骸には、圧倒的な力で蹂躙された痕跡が見て取れた。巨大な顎で噛み砕かれたであろう傷が、辛うじて原型を留めた四肢の所々にある。その牙の痕を見るだけで、この獣が相対した敵の巨大さが計り知れる。不意にリーネは周囲を見回し、警戒心から弓を構えた。ここはもう、平和で豊かな村じゃない…厳しくも残酷な大自然。自分の知らない何かが存在して、それを屠った何かが存在する世界。

「何だろ…ドキドキが止まらない。怖いよ師匠、御姉様…アズ君」

 周囲を見渡し、早急にこの場を立ち去るべきと判断して。踵を返すその足が突如、激震を感じて立ち竦む。リーネは背後の大地が突如割れ、土砂と雪が舞い上がる音を…それを掻き消し轟く絶叫を聞いた。日差しを遮り自分を包む、巨大な禍々しい影。ゆっくり振り向く彼女は、この地に君臨する絶対強者の姿を瞳に刻み付けた。生を奪い死をもたらす、短いハンター人生の終止符として。