「ん、どうした坊ちゃん?」
「靴紐が…いえ、何でもありません」

 大工の親方を手伝って、資材を運んでいたアズラエル。彼はふと足を止め屈み込んだ。リーネの母親に編んで貰った靴の、その紐が切れてしまったから。不吉な予感が胸中を過ぎるが、元から迷信の類は信じない性質で。その上、今日のアズラエルは晴れ晴れとした気持ちだったから。気にも掛けず靴紐を繋ぎ結ぶと、再び立ち上がる。
 昨晩を思い出せば、今でも頬が火照るのを感じる。口付けを交わし、朝まで共に過ごした一夜…その僅かな時間で確かめ合った、確かな想い。アズラエルは今ぼんやりと、しかし確かに解り始めていた。愛とは、与える事で得られるものなのかもしれない、と。求め飢えるだけだった自分に今、確かに与え伝える気持ちがある、と。

「ガッハッハ、流石に昨日は飲み過ぎたわい…二日酔いだな!」
「大丈夫ですか?こっちは全部、私一人で運んでおきますから」

 こめかみを押さえつつ、低く唸る親方に目を細めて。気合を入れ直すと、アズラエルは再び労働の汗を流し始めた。こうして今、自分が働いているように…リーネもきっと、狩りに精を出しているから。今日、初めての狩りを終えて帰ってくる彼女を、何と言って労おう…それを考えるだけで、意欲が湧き出て時間は過ぎ去る。幸せと思える日常は、こんなにも何気ないと知るアズラエル。

「おお〜い!居た、こんな所に居たさ〜!たたた、たっ、大変な事になったさ〜!」
「おう?何だ何だ、何があったってんだ…頭痛ぇんだから大声出すんじゃねぇよ」

 突如、馴染みの農夫が建築現場へと飛び込んで来た。その顔は血の気が失せ、肩で大きく息をして呼吸を貪る。ただならぬ気配に思わず、アズラエルも作業の手を止め駆け寄った。

「かっ、かか、かっ、帰って来たさ〜!そ、そそ、それも…ああもうっ!」
「落ち着いてください、何があったのですか?…まさかリーネに何か!?」
「…それはまだ無い、けど安心出来ないんだ。や、久しぶり…元気そうだね」

 慌てふためく農夫の背後から、見知った人物が顔を出した。その姿を見た時、アズラエルは言葉を失った。驚いたのは何も、去った筈の人間が戻って来たからではない。その人物が、満身創痍で微笑んでいたから。ジスカは辛うじて自らの足で立っていたが、疲労と怪我の辛さを隠し切れずに膝を付いた。

「ジスカ様、いったい何が…ポッケ様はミナガルデへ帰られたと」
「ふふ、ポッケか…奴は今何処へ?いや、それよりリーネだ…くっ!」

 慌てて寄り添うポッケの肩を借りて。辛うじて立ち上がると、ジスカは神妙な顔でアズラエルに耳打ちした。苦痛に顔を歪め、呻きながらも搾り出す。告げるべき真実よりも先ず先に、リーネの身に危機が迫っている事を。

「アズラエル、わたしは大丈夫…それよりリーネを、リーネを村の外へ出しちゃいけな…」
「彼女なら今朝方、既に狩りへ…っ!まさか!」

 ジスカの告げんとする意図が、おぼろげながらアズラエルに伝わる。それを確認する視線に、ジスカは黙って頷いた。手練の熟練ハンターたるジスカに、ここまでの傷を負わせた何かが、この地に存在する。そして不幸にも、その事実を知らぬまま…二人にとっても村人達にとっても大事な、愛しい少女に危機が迫っていた。

「親方、ジスカ様をお願いします…済みません、行きます!」
「急いだ方がいい、わたしも直ぐに後を追う!」

 親方の返事もろくに聞かず、アズラエルは飛び出していた。その背を押すように、ジスカも声を荒げる。が、その声ももう聞こえてはいない。彼の頭の中はもう、リーネを案ずる気持ちで溢れ返っていたから。