「ほらジスカ、御覧よ…リーネが行く…振り向きもせず、真っ直ぐに」

 小さくなってゆくアズラエルの背を、ポッケが焦点の定まらぬ視線で見送る。ジスカは、ああ、とだけ短く応えて、腕の中で冷たくなってゆく身体を抱き寄せた。彼女が良く知る、弟達と同じ眷族だったとしたら。ポッケがこの程度で死に到るとは思えないが。その答は直ぐ、本人自身の口から語られた。

「ボクもシステムの一部だからね…システムを止めれば、当然ボクも…」

 咳き込むポッケは再び、大量の黒い血を吐いた。こうして身を寄せ合い触れ合ってれば、弟達とは似て異なると…決定的に違うと思い知らされて。全てが終わった時の事を楽観視していた自分に、苦々しい思いが込み上げるジスカ。だがもう、彼女に出来る事は何も無い。

「図書院には仔細を全て報告するといい…キミの大手柄になるんじゃ、ないか、な」
「それはありがたいな。じゃあ、それで今までの事もチャラにしよう。うん、そうしよう」

 真実を曝す気は無かったが、ジスカは精一杯微笑んで見せた。恐らく詳細なレポートを作成して提出すれば、彼女には莫大な報酬が転がり込み、大規模な学術調査団がこの地へ向けられるだろう。この地を閉ざしていた謎の異常気象も、システムの停止により消え失せたから。だがそれは、何も知らぬまま、やっと唯一の生を手にした村人達を…これから初めて生まれて生きる、リーネ達を騒がせるだけ。

「村人達にはキミの事、何て伝えたらいいかな?旅に出たとか適当に…」
「ん、ああ…言った、ろ?記憶は持ち越せ、ないのさ。みんな、ボクを…忘れる」

 豪快で明朗な大工の親方も、気さくで親切な農夫も…あのリーネも。自分やアズラエルの事は愚か、ポッケの事さえ忘れるという。そんな旧世紀の亡霊達を相手に、墓守は何度と無く同じ事を繰り返して来たのだろう。村を初期化して刷新する度に、村人達には予め定められた記憶を設定して。自分も村唯一のハンターとして刷り込んで。そうして永き刻を過ごしてきたのだ。生きるでも死ぬでもなく、ただ延々と。

「そんな顔を、されても困るな…寧ろボクは今、奇妙な事だが、大いに満足している」

 滲む視界の中、ポッケが弱々しく、しかし確かに微笑んだ。初めて見せるその笑顔に、大粒の涙が一滴零れ落ちる。ジスカは黙って瞼を拭うと、努めて明るく振舞った。一時は怪しみ、憎んだ事すらあったのに…今はもう、様々な想いが解けて混ざり合い、蟠りは綺麗に消え去っていた。ただ今は、労わり慈しむ、友愛にも似た感情が湧き上がる。

「そうかい?そりゃ良かった…そっか、満足か」
「ああ、こんな事ならもっと前に…いや、いい。これでいいんだ」

 不意にポッケの体がぼんやりと光り出し、その四肢が塵芥となって消え始めた。あの時のリーネと同じ…だが、二度と戻らぬ旅へ。悠久の刻を旧世紀の墓守として過ごしたポッケが、その枷を解き放たれ、責から自由になる瞬間が訪れたのだ。

「おやすみ、ポッケ…お疲れさん。わたしは覚えてるから…あと多分、アズラエルも」
「そりゃ嬉しいね。ボクの遠い兄弟にも宜しく…いや、キミの近くに居るような気がしてね」

 もう既に、その身体は光その物になって。最後の言葉はもう、声になっていなかったが。確かにポッケは去り際、ジスカに礼を呟いた。ありがとう、と…その言葉を象る唇もまた消え去り、気付けばジスカの腕はもう、重さを感じなくなっていた。

「遠い兄弟、ね。アイツ等は頑丈だからなぁ…ま、いつか顔出させるとするよ」

 裾を払って立ち上がり、晴れ渡る朝の青空を見渡して。最後に一匹、見慣れぬ怪鳥が飛び去るのを見送りながら。ジスカは大きく伸びをすると、太刀を背負って山を折り始めた。重すぎる真実を胸に秘め、ただ事実だけを…村の存在だけを報告する為に。